木村元彦「オシムの言葉【増補改訂版】」を読みました
もしもの話に意味は無いけれどロマンがある
スポーツの世界において、たらればの話には意味がないなんてことがよく言われます。日本サッカーがプロ化されてから早23年。その短い日本サッカーの歴史においても数多くのそれが存在します。
そんなロマンあふれる仮定の話にもうひとつ加えたいものが僕にはあります。
- もしもイビツァ・オシムが病に倒れていなかったら
イビツァ・オシムについて
イビツァ・オシムは、1941年生まれのボスニア・ヘルツェゴビナ(旧ユーゴスラビア)のサラエヴォ出身のサッカー指導者です。日本においてはジェフ市原を2003年から指導し、2005年にはナビスコカップを制覇。弱小チームに初帝冠をもたらし、当時の日本サッカー界を震撼させた伝説のサッカー監督です。サッカーに馴染みの薄い方には2006年から務めた日本代表の監督としてのイメージの方が強いかもしれません。2007年に脳梗塞で倒れるまでの短い期間で日本サッカー界にもたらした影響は計り知れないものがあります。今なお、Numberなどの雑誌が彼の言葉を求め取材を続けることからも、オシムの放つ言葉の重さが感じ取れるのではないでしょうか。
イタリアワールドカップ ユーゴスラビア代表
サッカーファンであれば、1990年イタリアワールドカップの決勝トーナメント一回戦でドラガン・ストイコビッチが決めたこの美しいゴールをご覧になったことがあるでしょう。のちにACミランで10番を背負うデヤン・サビチェビッチ、ロベルト・ヤルニ、ロベルト・プロシネチキなどのタレントを有し「東欧のブラジル」と呼ばれたユーゴスラビア代表は、直接フリーキックも決め2得点を奪ったピクシーの活躍もあり強豪スペイン代表に勝利するも、続く準々決勝ではマラドーナ率いるアルゼンチン代表にPK戦の末敗退しました。
このユーゴスラビア代表を率いていたのがイビツァ・オシムだったことを知る人はあまり多くないのではないでしょうか。
オシムの言葉【増補改訂版】を読みました
本書の序盤では、ひとつの時代が終わり国家崩壊に向かうユーゴスラビアという国の悲壮な環境、そしてその国の代表監督を担うことの重圧の大きさが連々と綴られています。
複雑に絡み合う民族・宗教などがひとつの国家で融和し、平穏に暮らしていた人々が独立という命題のもと戦争の惨禍に見舞われ、サッカーまでもが政治家やマスメディアのプロパガンダの道具として使われていました。ある選手はユーゴスラビア代表のユニフォームを着ることが裏切りと見做され、オシムは特定民族の選手を使うよう脅迫的な圧力を受けていました。扱いを間違えれば家族が殺される、故郷に爆弾を落とされる。そんな環境において、彼らはイタリアワールドカップを戦っていたのです。アルゼンチン代表とのPK戦、退場者を除くフィールドプレーヤー9人の内7人の選手が蹴ることを拒否したエピソードがそのプレッシャーの大きさを表しています。
ひとつの国で一方の民族が別の民族の町に爆弾を落とす。そんな状況下、メディア、政治、右翼などサッカーを飛び越えた圧力に晒された状態のその多様な民族の集合体を、オシムはユーゴスラビアという国の最後の代表監督として纏め上げたのです。
ここまでの話は、史学的、地理学的な知識とともに当時のユーゴスラビア代表や後のクロアチア、スロベニア、セルビアなど、各国のサッカー知識を要される内容になっていて、非常に複雑です。ただ、オシムの人間としてのタフさ、聡明さ、筋の通った愚直な人間性が読み取れる貴重なエピソードが溢れています。
過酷な道を歩み終え日本に訪れたオシムはジェフ市原の監督に就任し、様々な意識改革を行いジェフにタイトルをもたらします。その後日本代表監督を努め今までにないサッカー観を日本人に植え付け始めたところで病に伏し、道半ばで代表監督を辞するところまでが「オシムの言葉」の全貌となっています。
オシムが作ろうとしていた「自分たちのサッカー」
本を読んでいる最中、もしもオシムが日本代表の監督を続けられていたらということをやはり思ってしまいました。
本田圭佑の活躍もあり、2010年南アフリカワールドカップで日本代表はベスト16へと進出しました。その戦いは日本本来のサッカーではなく、勝利した点は勿論評価に値すべきとは思いますが、ポリシー無き勝利のあとに残るものは多くないと僕は考えます。ロンドンオリンピックもひとつの例と言えるでしょう。そして、2014年ワールドカップでは「自分たちのサッカー」を追求しましたが実力を発揮できずに惨敗に終わりました。
オシムは日本人の勤勉性を高く評価していました。それと同時に鍛えても身長は高くならないとも述べています(ジェフ市原は身長の低い選手がこれでもかと揃っていました)。選手には走ることを強く要求し、失敗を恐れずに挑戦することを高く評価しました。記者がミックスゾーンにいる佐藤勇人に対し、オシムに言われた内容を伝えるシーンが象徴的です。
監督に、最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。そうしたら、「シュートは外れる時もある。それよりもあの時間帯に、ボランチがあそこまで走っていたことをなぜ褒めてあげないのか」と言われたよ」
一昔前にはブラジルに学び、少し前にはスペインに学ぶ。そんな風に日本のサッカーは世界のサッカーを追いかけることに終始しています。オシムは自らのサッカー哲学と日本人の持つ特徴を重ねた新しいサッカーを築きあげ、日本らしいサッカー、つまり「自分たちのサッカー」を完成させることに挑戦していたのだと思います。ボールポゼッションこそが日本のサッカーだと信じるサポーターやメディアから、アジアカップで敗れた際には批判も浴びました。しかし、人を引き付けるシニカルなユーモアとカリスマ性を備えたオシムです。批判をかわし、逆にメディアにサッカーを教え、南アフリカ大会までには真の日本人による「自分たちのサッカー」を構築したのではないかと、今なお希望的観測が頭をよぎるのです。
【増補改訂版】に綴られた知られざる偉業
そんな感傷に浸りつつ読んだのが11章「再戦」です。
この章は【増補改訂版】のために書き下ろされたもので、日本を離れたオシムが健康上の心配を抱えた状態にも関わらず、祖国ボスニアが抱える民族問題の煽りを受けたボスニアサッカー協会の内部統制を図る「正常化委員の委員長」を努めた際のエピソードが綴られています。
日本サッカーとオシムが出会えたことは喜ばしいもので、実際、多くの日本人はオシムの人柄をも愛していました。その日本とオシムの間にある師弟関係の調和具合はまるで、オシムが日本サッカーを牽引することがある種の運命だったのではないかと感じてしまうほどのものがありました。
ただ、僕はこの11章「再戦」を読むと、その考えが日本人のエゴだったのだと感じてしまいます。
「一つのボスニアサッカー協会に3人(3民族)の会長がいるという状態を解消する」という役割は、ボスニアに生まれ育ち、凄惨な時期にあった最後のユーゴスラビア代表監督を努めたオシムにしか果たせないものだと思います。
オシムは偉大なサッカー指導者であり日本に多くのことを享受してくれました。日本サッカーにオシムが居てくれることは間違いなく有益ですが、オシムを必要としているのは日本ではなく彼の祖国ボスニアなんだと思います。
そして神様がオシムに与えた使命もまた、ボスニアに全てを捧げることなんではないかという、ある種神秘的な感情すら込み上げるのです。11章「再戦」に描かれた知られざるオシムの偉業を、日本サッカーを育ててくれたせめてもの恩返しとして是非多くの日本人に知っていただきたいと僕は思います。
- 作者: 木村元彦
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2014/01/04
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